知とわたし――女性学、フェミニズム研究の視点から 第2回

交差する文脈の中を生き抜くための知

荒木菜穂(日本女性学研究会)

社会は難しく、そして面倒くさい

女性学、フェミニズムと出会うと、「個人的なことは政治的なこと」ではないが、さまざまなことがらが、社会のしくみとともに考えることができることがわかってくる。「あたりまえ」とされているけれど、なんとなくモヤっとすることでも、その背景にある社会のしくみを知ることで、納得できるか、おかしいと思うか、自分の言葉で考えることができるようになる。先達による知の蓄積はその意味で、何物にも代えがたいものである。

同時に、ある程度、ある事柄についての議論を知るにつれ、社会は複雑で面倒くさいものだと感じる機会も多くなる。

私が社会って、人間って難しいな、イチかゼロでは語れないのだな、と思ったひとつが、いわゆる「エロ」についてのことだった。エロは女性差別的、性的搾取的な文化だとフェミニズム的には言うんだろうけど、エロを楽しむ権利もエロをお仕事にする権利も女性にはあって、それを否定するのってどうなのだろう、という。

このややこしさにおいては、女性が何らかのエロを選ぶとき、それが主体的かどうか、ということが問われる。女性が主体的にエロを楽しんでいると思われる現象にたいし、いや、それって結果的に男にとって都合のよい女なだけだ、とか、自身の欲望じゃなくて自尊心が低いゆえ求める男性からの承認なのではとか、その主体性を否定される声がバラバラとあらわれてくることもある。

そうなると、主体的って何なんだろうという混乱が生まれる。そりゃ完全に自分の判断だけで行動することは人間には不可能だろうし、何らかの社会の影響は受けているんだろうけど、どこまで影響受けたら、「社会に踊らされてる」ということになるんだろう、という。

で、結局それって、文脈によるのではないか、と思うようになった。
エロに限らず多くのテーマで、主体的か、社会構造のせいか、という議論はあるし、それこそイチかゼロかの結論など出すことはできない。少なくとも、文脈を知らないことには判断することなんてできない。

自分の場合でも、自主的に何かを選択しているかどうかは、やはり自分の置かれている文脈を考慮した上で、責任を持って決めることが必要になる(もちろんそれができない場合は、公的な支援や、つながりの中でのケアやサポートを受ける権利や広い意味で提供する義務が人にはあると思う)。

多様な個人、多様な文脈や事情

では、文脈をどうやって知るか。自分はどのような状況に置かれているか、その人にはどんな事情があるか、もっと言えば、社会構造なんてどうやって知るのか。関係ありそうな場所すべてに足を運んで、調べまくって、話を聞いて、そんなことできるのか、と問われたら、無理だと思わざるを得ない。

しかし、たしかに人は、一人で経験できることは限られている。けれども、さまざまな人が調べ、考え、形にしてきた知識に、学問にアクセスし、そうやって社会を、文脈を知り考えることができる。

働いておらず収入がない人がいたとして、その人は事情があって働きたくても働けないのか、自主的に働かないことを選んでいる人なのか。女性が美しくありたい気持ちは、ジェンダー構造による美の規範にコントロールされているのか、自主的な選択なのか。専業主婦になりたい女性は、自分で決めた結果なのか、女性の「あるべき」に流されているのか、仕事が続けられない事情があったのか。家庭の収入を支える男性は、本当にやりたい仕事が不安定なものだから、男性の役割というプレッシャーの結果その仕事を選んでいるのか、望んでその役割を引き受けているのか。パートナーからの暴力の被害に苦しんでいる人がいたとして、暴力的なことをわかってて自主的にそのパートナーを選んだ結果ということなのか。

社会構造、権力関係、さまざまな事情、知らずにとやかく言うのは失礼なことであるだろう。その失礼は、文脈や事情があること自体を知ったうえで、それがどんなものか他者である自分が「わからない」のに知った風にふるまう傲慢さともつながっている。ただ、基本的にはとやかく言うこと自体が失礼であるが、なんらかの対応をしないといけない場合、社会のしくみや事情を知ることに努めないといけないし、他者である自分が完全には知ることができない事実にも謙虚であるべきだと思う。いずれにせよ、社会や文脈、事情と向き合うことはそれぐらい重いことであるし、知の持つ意味は大きい。

つながりの中の「自己責任」と知

昨今、自己責任論がさも正しいことかのように世の中にはびこっているけれど、自己責任とは、さまざまな文脈や事情知ったうえで選択できたうえでの責任なわけだから、それらを知ることができる社会が前提でないといけない。そしてその、知ることができる社会とは、さまざまな知識、学問が豊かに存在する社会のはずだ。

自分一人では狭い範囲の世界しか経験できない。そのままだと、強い言葉や、さもそれがたったひとつの現実かのように、時として差別的な言説が飛び交う中、それらにひっかかって流されてしまうかもしれない。実際には、世の中とは、多様な文脈や事情の組み合わせでできているものだし、そういった多様性と責任をもって向き合うためには、やはり、知は必要だ。権威としての知ではなく、社会で生きるための力としての知。

生きるための力とは、なぜ自分はこういった選択をしたかを説明できる力であり、もし何か嫌だと思う経験をした場合、なぜ嫌かを説明できる力、おかしいことをおかしいと言える力であると思う。

最初に、社会は難しい、イチかゼロでは語れないと書いたけれど、そもそも社会は、難しく、面倒くさくってあたりまえのはずである。ここに生きる人たち、かつて生きていた人たち、これから生きるであろう人たちの数だけ、文脈や事情がある。しかし、権力によって、文脈がはぎとられ、事情が消し去られ、世界が単純化され、あたかもそれが居心地のよい世界のように思わされることが歴史の流れのなかにもしばしばある。知や学を余計なものとし、文脈や事情、社会構造にたいし見てみぬふりする社会とは決して成熟した社会であるとは言えない。

しかしながら、知にアクセスすること、言葉を持つために動くことがどこまでできるか、も人それぞれであり、事情がありそれらが難しい人たちもいるだろう。

生き抜くための力としての知や学は、持ち寄り、つながりあって、それぞれの人の力となり、拡がっていくことが良いと思う。70年代より続く女性学のような、各地で知識を持ち寄った勉強会が開かれ、日常の中で生かされていった知がある。同時に、大学や学会などよりさまざまな知を発展させるための組織も、両方が社会にとっては必要である。学問の場とはそのような相互作用の場であるべきだし、多くの人が関わる相互作用の中で、知や学はさらに豊かなものになっていくのだと思う。

社会とは、人間とは、本当に複雑で面倒くさい。簡単にわかったふうになる傲慢さは私の中にも多いにある。知識もなく、多様な経験もない自分だから、誰かとつながって、知にアクセスし、少しでも視野を広げたい。そのためにも、相互作用の中でさまざまな知が蓄積され、育てられていくしくみがあり続ける社会であってほしいと願う。

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